東海道五十三次“濱松・冬枯ノ図”のほうき再現プロジェクト

第十二話 シュロ箒について

[ ブログ ]  2015/09/11

歌川広重が東海道五十三次を描いたのは1833年、江戸時代の天保4年と言われています。わずか30数年後には明治維新を迎えることになるわけですが、江戸時代の、しかもここ浜松のほうきを再現する・・聞いただけでもなかなか面白そうです。

前回、JA青年部様の協力を頂き、遂にほうき草が完成しました。しかし、ここである懸念が・・。広重が描いた箒に使われている素材は、ほうき草であるかのように進んでいますが、果たして本当にほうき草なのでしょうか?広重が描いたと推測できる素材はほうき草(ホウキモロコシ)、竹、シュロ(棕櫚)の3つ。ここで、それぞれの素材の歴史を紐解くことで、広重が描いた箒について、さらに考察したいと思います。まずはシュロ(棕櫚)から・・・

棕櫚箒 鬼毛

「良かったね。ほうき草(ホウキモロコシ)が完成して。ウルトラ級の荒業をせずに済んでほっとしているよ。」
「や、やっぱりタイからほうき草を輸入することを考えていたんですね。」
「いやいや、そんなことは・・・(またしても引きつり気味)」
「でも、これでほうき草じゃなかったら、それこそやばいですね。」
「そうだね・・・。うん、やばい。」
Y 「・・・・・でももっとやばいのはシュロ(棕櫚)だった時かな。自生しているとはいえ、収穫できるシュロを一から探さなければならないし・・」
K 「シュロは浜松では見たことないんですが・・・、以前関西以西に多く生育していたと言っていましたけど・・」
Y 「一番の産地は現在の和歌山県。大正9年の『全国棕櫚産額一覧表』を見るとわかるんだけど、ダントツの1位だね。次いで、徳島県、奈良県、山口県、やっぱり紀伊半島、四国、中国、九州地方が多い。それにシュロ箒は多分・・竹ほうきの次に歴史がある箒じゃないかと思う。」
K 「そうなんですか?」
Y

「うん、シュロの歴史を調べたんだけど、シュロそのものの記録は文永年間(1263〜1275年)に記録が残っているし、シュロ箒に関して言えば、1645年に刊行された俳論書『毛吹草(けふきぐさ)』に記録されている。」

K 「文永って。まさか元寇の文永の役の文永ですか?ということは鎌倉時代・・」
Y 「おっ、珍しい。その通りだけど、まぁいいや。とにかくシュロの歴史から見ていくね」


棕櫚の起源には2種類の定説(1つは原産を中国とする説、もう1つは原産を日本とする説)があるようですが、はっきりとわかってはいません。
原産を中国とする説は、弘法大師が中国に留学の帰途、棕櫚に様々な効用があることにいたく感心し、中国から持ち帰り、高野山の周辺に多く植栽したとする説で、例えば高野山開基の弘仁7年(816年)とした場合、相当古い歴史があることになります。
一方、原産を日本とする説(即ち自生した説)は、1:西日本を中心に各地で相当古くから栽培されていたこと、2:古来和名を「すろのき(須呂乃岐)」、別名を「しゆろ」・「わじゆろ」と言われ、「唐棕櫚(トウジュロ)」と性質が異なることを根拠にしています。これによれば、文永年間(1263年〜1275年)有田郡安諦村(あでむら、現清水町)の山中にあった自生のものを観賞用として持ち帰ったという記録(古老の口伝を根拠とする)又は弘和年間(1381年〜1384年)に結城式部という篤農家が棕櫚の効用を村人に聞き、棕櫚の栽培を試みたという記録(古老の口伝及び南紀徳川史を根拠とする)が残っています。どちらにせよ、相当古い歴史があることは確かです。
 

K 「相当古いですね。でもこれはあくまでもシュロの起源であって、シュロ箒ではないですよね。」
Y 「そうなんだ。シュロ箒の起源を調べようと思ったんだけど、歴史的にみると、シュロ箒はかなりマイナーな存在で、なかなかヒットしないんだ。1645年の記録からなかなかさかのぼれない。」
Y 「とにかくシュロはいろんな用途に使われていたみたいだね。」


棕櫚は、時代によりその用途は様々です。例えば江戸時代、棕櫚の主な需要地は江戸で、腐りにくく極めて強いことから、建築用の壁下地の網縄に使われていたことが知られています。また、日清・日露戦争では、軍の弾薬箱の手縄として大量に利用されています。その後、漁業におけるトロ箱の手綱など各種産業で大いに活用され飛躍的に発展したようです。

大きな流れとしては、棕櫚縄、網が主用途であり、その後様々なものが開発されました。知り得た用途の一部を挙げると、
1)棕櫚皮
  縄、網、マット、敷物、刷毛(はけ)、箒(ほうき)、蓑(みの)、鼻緒、敷きマット
2)耳皮
  荒箒、荒タワシ
3)新葉
  夏用の帽子、真田紐、団扇(うちわ)、笠
4)硬葉
  ハエたたき、埃たたき、団扇(うちわ)
5)材幹
  枕木、鐘木、床柱、額縁
 

K 「ハエたたきにも使われていたんですか?」
Y 「うん。それには私もビックリした。」
K 「本当にありとあらゆるものに使われていますね。これだけ使われると、シュロそのものにご利益がありそうで、弘法大師が持ち帰ったとする説も確かにうなずけます。」
K 「それはそうと、江戸時代の需要地はやはり江戸なんですね。」
Y 「そうだね。それと大坂もかなりの需要があったみたいだね。シュロの皮(原料)を江戸や大坂に送ったという記録が残っているし。」
Y 「それにかなりの人口がいるから、江戸や大坂にはシュロ専任の職人さんもいたみたいだね。」
K 「シュロ専任の職人ということは棕櫚で生業が成り立つくらいに流通量が多かったということですか。」
Y 「うん。今からだと想像がつかないかもしれないけど、相当の量だったみたいだよ。」
K 「・・・問題は、浜松でシュロ箒が作られていた(使われていた)かどうかだね。」
Y 「江戸後半になると、シュロ産地の紀州藩から他藩へシュロの移出がかなりあったみたいなんだ。これは推測だけど、移出するとすればそれなりの需要がある地域に向けて移出されると思う。実際、シュロ製品の加工が盛んだった江戸、大坂、奈良、滋賀、埼玉の地名はよく出てくるし。だけど、残念ながら、浜松は出てこない。わざわざ、浜松に移出したかどうか・・・。恐らく、その可能性は極めて低いと思う。」
K 「どうしてですか?」
Y 「やはり商売だし、需要が高いところだとそれなりに高く売れるから。だからシュロのほとんどが江戸や大坂に向けて移出されたんじゃないかなと思う。」
K 「そうすると、浜松にシュロが育っていたかが、一つのポイントになりますね。つまり、今で言う『地産地消』で、浜松で育ったシュロを使って、シュロ箒を作っていたかがポイントですね。」
Y 「そうなんだ。ただ残念ながら、今の愛知県や岐阜県では、シュロが育っていたという記録はあるんだけど、如何せん、浜松がどうだったかがわからない。」
K 「残念ながら、残念ながら、ばっかりですね(笑)。」
Y 「確かに(笑)。元々生活に関わる物って当たり前の物が多いから、よっぽどの事じゃない限り、わざわざ記録として残さないんだ。だから、残っている記録をつなぎ合わせるしかない・・、どうしてもつぎはぎだらけになってしまう。」
K 「じゃ、可能性でいくしかないですね。」
Y 「そう。これも可能性だけど、さっきも言ったけど、シュロは色々な用途に使われていたから、大切にされていたと思う。和歌山県でも戦前までは本当に大切にされていたみたいなんだ。ただ悲しいことに、戦後、シュロの需要が一気に落ち込んで、違う木に植え替えられてしまったみたいだけど。」
K 「そうなんですか?」
Y 「うん。・・・だから、昔の浜松を知っている方にシュロについて聞いてみたんだけど、あまり見たことがないって言うんだ。」
Y 「シュロを商売としてやるにはそれなりのシュロの木が必要と思うんだけど・・、つまり、記録に残るくらい。(見つかっていないだけかもしれませんが)記録にないということは、シュロを生業とした産業がそれほど普及していなかったんじゃないかと思うんだ。あったとしてもせいぜい自家用に使うぐらいじゃないかと思う。」
K 「つまり、広重が見た箒はシュロ箒じゃない!ということですか。」
Y 「あくまでも可能性の範疇だけど、シュロ箒は外していいと思う。」
Y 「や、やっぱりそうですか。私も念のため、シュロ箒(皮仕様です。鬼毛仕様はしなやか過ぎて、外を掃くには不向きでした)を使って外を掃いてみましたけど、昔でいう土間とか、踏み固まったような場所であれば十分掃けると思いますが、たき火をしているような付近で掃くにはちょっとつらいかなと思っていて・・・、穂の密度があるので、抵抗が強くて、すぐに疲れてしまいました。」
Y 「そうか。意外に努力していたんだ。」
K 「『意外に』は余計です。」


こうして、あくまでも可能性の範疇ですが、シュロ箒を広重が見た箒から外すことにしました。残るはほうき草か竹か・・、次回以降、いよいよ核心に迫ります。ゴール間近で大どんでん返しが起こらないことを祈りつつ、続きは次回に。

追伸)ここで、独り言・・。
弘法大師が中国から持ち帰ったとする説には興味深い点がいくつかあります。まずシュロ箒の仕様です。現在の中国でもシュロ箒はよく使われていますが、その仕様は日本の仕様にそっくりです。60代の中国の方に聞いたところ、子供の時からその仕様だったそうです。次に、遣唐使です。ちょうど、800年頃、仏教の修行にお掃除を取り入れた僧がおりました。遣唐使の方々は、仏門に入り様々な修行を行うわけですが、その際に、シュロ箒を使ってお掃除したことも考えられます。シュロの木が鐘木(鐘をつく木)として使われるという点も頭のスミにおいておきたいところ。弘法大師とは言いませんが、遣唐使に行った方々がシュロの用途を見て、それを技術として持ち帰り、日本で広めたと考えてみては如何でしょうか?明治以前、中国は日本にとって、まさに先進国。中国から様々な文化や技術を取り入れていました。そう考えると、中国からシュロ箒が伝わったと言えるかもしれませんね。いずれにせよ、すべて想像の世界ですが。