東海道五十三次“濱松・冬枯ノ図”のほうき再現プロジェクト

第十三話 鹿沼箒について

[ ブログ ]  2015/10/12

歌川広重が東海道五十三次を描いたのは1833年、江戸時代の天保4年と言われています。わずか30数年後には明治維新を迎えることになるわけですが、江戸時代の、しかもここ浜松のほうきを再現する・・聞いただけでもなかなか面白そうです。

前回、シュロ(棕櫚)の歴史を紐解いた上で、シュロ箒を広重が見た箒から外すことにしました。残るはほうき草か竹か・・。今回、いよいよほうき草に迫ります。数ある(ほうき草を使った)座敷箒の中から、まずは一世を風靡した鹿沼箒にスポットライトを当ててみたいと思います。
 

「鹿沼箒って・・、私聞いたことがないんですが・・・。」
「え?鹿沼箒を知らないの?そうか、ギリギリ昭和生まれだからな。」
「平成生まれでも構いませんよ(笑)。でも・・そもそも私が育った頃は、箒が家にありませんでした。」
「そうか、掃除機か・・・。」
「そうです。だから、アズマに入社して、『座敷ほうきってこんなに売れているんだ』って内心ビックリしました。」
「鹿沼箒の特長って何ですか?」
「特長はいろいろあるけど、まずはその形かな。全体的に幅広く仕上がっているんだ。でも、正直なところ、それぐらいしか知らなくてね。今回、ほうき草の種で知り合った丸山様にいろいろと聞いてみたら、目からウロコっていうか、ホント奥が深い。こんな箒をよく作ったなと思えるくらいにね。」


鹿沼箒は1841年、江戸から座敷箒に使われている「ほうき草の種」を鹿沼に持ち帰った時から始まります。今でも「鹿沼土」として知られる鹿沼は水はけがよく、ほうき草の栽培にも適している地域です。その後、度重なる品種改良を経て、鹿沼独特のほうき草を作り上げました。そのほうき草の特長は、穂先が長く、やわらかい丈夫な穂にあり、その特長を生かしたのが鹿沼箒です。

 

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「本当に幅広い。」
「その形状から蛤箒(はまぐりほうき)とも呼ばれている。」
「穂も長いですね。」

「丸山様に聞いたんだけど、穂先の部分を整えるために、『手をいっぱいに広げて、男性で2手、女性で2半手くらい』の長い穂を大量に使うそうなんだ。そんな穂はあまりないので、ぜいたくな箒ともいえるね。」

 

蛤箒(はまぐりほうき)とも呼ばれている

「それから、穂の茎の部分の編み上げも整然として、非常に細かくなっているのも特長の一つ。これも教えてもらったんだけど、茎の部分を編み上げる際に、カラサキという昔から伝わる独特の道具を使って、何回も茎を裂くんだ。だからこんな細かく編み上げられる。確かに茎を裂かなければこの編み上げは無理だね。 編み上げた茎は、柄の付け根にたどり着くまでに、じわじわとしまってくる構造になっているから、その工程が全体の仕上がりの美しさを引き出しているね。」

 

茎の部分を編み上げる際に、カラサキという昔から伝わる独特の道具を使って、何回も茎を裂くんだ。だからこんな細かく編み上げられる

穂の茎の部分の編み上げも整然として、非常に細かくなっているのも特長の一つ

「本当、キレイ・・。座敷箒でこんなに美しいと思ったのは正直初めてです。」


鹿沼は木工の町でもあります。江戸時代、日光東照宮建設の際、日本全国より多くの優秀な宮大工が呼び寄せられたこともあり、町全体が「美」を育む雰囲気があります。箒に対しても「美」を追求する姿勢があり、掃き心地はもちろん、美しさが求められました。以前は蛤箒のコンテストが催され、美しい箒をいかに早く作り上げるかを競ったこともあったそうで、しかもほうき草を取り仕切った美濃屋という方が職人に階級をつけ、競わせ、より丈夫で美しい箒を作らせたそうです。互いに切磋琢磨することで、磨き上がったんですね。そして、それに対応すべく、前述した通り、ほうき草自体もより質の高いものが求められ、品種改良や栽培方法が工夫されたようです。

 

「鹿沼箒の職人として、人前に出せるようになるまでに3年掛かるそうなんだ。その内、カラサキ1年と言われ、穂の繊維を見極め、キレイに真っ直ぐ裂くことを鍛えられる。よく言われているのが、『蛤型を作れる人は他の箒も作れるが、他の箒を作れる人でも蛤型は作れない』・・・・・・習得が難しいんだね。」
「それに、これはあくまでも推測だけど、この鹿沼箒は日本で唯一、日本人が考案した形状かもしれない。」
K 「えっ、だって、今流通している箒は日本で作られたんじゃないんですか?」
Y 「確かに日本で磨き上げたものだけど。・・・・・・前回も言ったけど、座敷箒が登場する前は棕櫚箒が普及していたんだ。その棕櫚箒はひょっとしたら中国か ら入ってきたかもしれない。江戸で作られている座敷箒を見ると、棕櫚箒の形状に似ているんだ。推論で申し訳ないんだけど、ほうき草が作られて、『さぁ、箒 を作ろう』と思った時に、全く新しい構造のものを考えると言ったら、それは怪しいと思う。つまり、それまでに流通している・・・」
K 「そっか。棕櫚箒をまねたんですね。」
Y 「そう考える方が無難だと思う。」
Y 「鹿沼箒は明らかに通常の座敷箒から一線を画しているし・・・。そう考えると、『日本で唯一の』と考えてもいいんじゃないかなと思う。あくまでも推論だけどね。」
K 「でもそんな鹿沼箒がなぜあまり知られなくなったのですか?」


鹿沼箒に大きな転換期が訪れたのは、昭和30年代以降。急激に普及した電気掃除機の登場により、おそうじの主役を奪われ、座敷箒の需要は激減し、鹿沼箒はほとんど作られなくなりました。また、流通が引き起こした影響も大きいと考えられます。全国展開するチェーンストアが出現すると、その販売力に対応できる供給力が求められましたが、鹿沼箒は一人の職人で作れるのは最大1日2本です。とてもその販売力に対応できません。そういった複合的な要因が重なり、鹿沼箒は衰退したと考えられます。

 

「決して質が悪いとか、そういうものじゃないんだ。むしろ良過ぎたのが仇となったのだと思う。」
「もったいないですね。」
「ほんと、そうなんだ。さっきKさんが言っていたけど、私も鹿沼箒を見た時に稲妻が落ちたというか、しびれるくらいに感動したんだ。」
「箒をここまで引き上げた鹿沼の人たち、そしてそれを受け入れた日本人はやっぱりいいですね。」
「そうだね。今、丸山様が頑張って、また鹿沼箒を広めようとしているから、これからが本当楽しみだね。」


鹿沼箒が生まれたのは早くても1841年。歌川広重が東海道五十三次を描いたのは1833年。間違いなく、広重が見たものは鹿沼箒ではありませんが、箒の可能性をここまで引き上げた鹿沼箒に最大の敬意を表したく、ご紹介させていただきました。次回以降、鹿沼箒のほうき草のルーツである江戸箒に迫ります。さあもう京都は目の前ですが、続きは次回に。
 

※使用している鹿沼箒の画像は、ホームページ「とちぎの伝統工芸品」から転載しています。