東海道五十三次“濱松・冬枯ノ図”のほうき再現プロジェクト

第十五話 江戸箒について 二

[ ブログ ]  2015/11/13

歌川広重が東海道五十三次を描いたのは1833年、江戸時代の天保4年と言われています。わずか30数年後には明治維新を迎えることになるわけですが、江戸時代の、しかもここ浜松のほうきを再現する・・聞いただけでもなかなか面白そうです。

 

前回、江戸におけるほうき草の生い立ちを考察しました。今回、いよいよ江戸箒の特長に迫ります。広重がいた頃の江戸箒とは果たしてどんな箒だったのでしょうか?

 

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「どう?江戸箒がどんな形状だったか、なんか推理できた?」
「まったく、わかりません!昔のことを考えるって、こんなに難しかったんですね。」
「江戸箒という定義があいまいだから、余計にね。」
「それはそうと、ほうき草を使った座敷箒のことを別名「あづま箒」って言うんだけど、知ってる?」
「え、もしやもしや弊社のブランド「吾妻(あづま)箒」ですか?すっごいですね。」
「いや、残念ながら・・。多分漢字は「東箒」。東(ひがし)の箒って意味で・・・、西(関西)の棕櫚箒に対して東(関東)の座敷箒という意味だと思う。」
「ということは、その呼び方からしても、座敷箒が江戸で普及したということを示しているんですね。」
「そう。だから、江戸箒はほうき草を使った座敷箒のこと全般を言うんだと思う。」
「そうなると、今流通しているほうき草の座敷箒はすべて江戸箒に端を発していることになりますね。」
「うん、そだね。・・・その中でも面白いのが、座敷箒のある編み方が『あづま(あずま)型』と言われているんだ。」

「この編み方、どっかで見たことない?」

 

座敷箒のある編み方が『あづま(あずま)型』

座敷箒のある編み方が『あづま(あずま)型』

「た、確か・・棕櫚箒で。えっえっーー」

 

棕櫚箒

「うん、そう。あくまでも推測だけど、棕櫚からほうき草という素材に代わっても、箒の形状そのものは大きくは変わらなかったんじゃないかなぁ。つまり、江戸箒の形状は棕櫚箒を基本にして編まれたんだと思う。」

 

当時の江戸にはすでに箒職人がいたと思われ(その当時は棕櫚箒ですが・・・)、経験を重んじる職人が素材を変えることで編み方を一から変えたとは考えにくく、棕櫚箒を作る要領で座敷箒を作ったと考えることが自然な流れだと思われます。

また、棕櫚箒と座敷箒には基本的なところで共通した構造があります。両箒ともそれぞれの玉に横串を通して固定し編み上げていますが、これは箒を形成する上で最も基本的な箇所です。ここからも同じ要領で作ったことが推察できます。

 

「ただ、ちょっと引っ掛かることがあってね・・・。明治以降、棕櫚箒の生産がもっとも盛んだったのが、実は棕櫚の産地和歌山県なんだ。それまでは棕櫚を原材料として送り出していたんだけど、明治中期以降、棕櫚の加工も始めたんだね。でも『ほいさっ』って感じで当然できない。いざ作ろうと思っても、そのノウ ハウがないからね。」
「で、どうしたんですか?」
「文献に1行程度しか載っていないんだけど、それぞれの加工先から教わったらしい。当然、その中には棕櫚箒もあったと思う。」
「つまり、東京や大阪で作られていた箒を参考にした。ただ、その参考にしたのが必ずしも棕櫚だけでなく、座敷箒も含まれていた可能性もある。」
「だから、棕櫚箒が元々『あづま(あずま)型』なわけでなく、江戸で作られていた箒の形状が『あづま(あずま)型』で、それを和歌山県で棕櫚を使って作ったのかもしれない。」
「なんだか、ややこしいんですけど・・」
「うん、つまり当時(明治中期頃)東京ではやっていた形状が『あづま(あずま)型』で、はやっていたということであれば、ほうき草の座敷箒ってことになる。」
「一口に江戸箒と言っても、時間の流れとともに色々と変化していると思うんだ。」
「棕櫚と違って、ほうき草は茎の部分を編み上げることができるし。」
「じゃ、最初は茎を編み上げないで、棕櫚箒みたいにほうき草の茎部分を柄にヒモで巻き付けるだけの構造かもしれないですね。」
「十分あり得る。」
「だんだん競争が激しくなって、あの手この手で箒の構造や編み方に工夫が磨かれていったんだと思う。」

 

元々は棕櫚の代わりにほうき草で編んだだけの箒が、そのほうき草特有の掃き心地で一気に広がった後、様々な競争があったと思われます。掃除機がない当時、箒を使って家中のお掃除をしていたので、掃き心地は当然の事として、軽さが求められます。棕櫚とは違い、ほうき草には重くなる要因である茎があるので、特にこの茎の処理の仕方(編み方)に着目し、編み方に工夫を凝らしたと思われます。その中で、箒職人がそれぞれの特長を出すために、あの手この手で編み方や刺繍に対し、デザインを変え、形状を変えたのではないでしょうか?

 

デザイン性と実用性を兼ねた「鹿沼箒」

蛤箒(はまぐりほうき)とも呼ばれる鹿沼箒

 

「でも江戸時代に、そんなに競争ってあったんですか?なんかゆっくりしたイメージがあるんで。」
「今も昔も変わらないと思うよ、逆に情報量が今より少ない分、ちょっとした情報に一喜一憂していたんじゃないかとさえ思う。」
「『流行矢の如く 昨日の新奇も今日は古し』(1836年刊行 為永春水著「春告鳥」)って文章があってね・・・・」
「『流行は矢のように早く変わり、昨日新しかったもの、珍しかったものも今日は古い』という意味ですか?」
「おお、すごい。」
「完全にバカにしていますね。これぐらいわかります!」

「ごめん、ごめん。でもそれくらいはやりすたりが激しかったんだね。」

「たとえば、先日取材させてもらった白木屋伝兵衛様は創業1830年なんだけど、どちらかというと後発らしい。」
「1830年で後発なんですね・・」
「そっ。だからそれまでの箒の構造を根本的に見直した新しい仕様を考えて、それを世の中に出したら、たちまちヒットした。当時は実用性をとにかく重視していたそうなんだ。」

 

「1830年って・・まさしく広重が生きていた時代ですね。」
「そう。それに『美』を追求した(つまりデザイン性も重視した)鹿沼箒が江戸後期もしくは明治以降一世を風靡するから、当時は今よりも編み方、刺繍なんかはシンプルだったかもしれない。実用性の観点でいろいろと競争していたそうだから。」
「一方で、明治中期以降に『あづま(あずま)型』が和歌山県に伝わったと仮定した場合、鹿沼箒が登場してから明治中期にかけて、編み方に対してもどんどん工夫されていったんじゃないかなぁ。」
「つまり、広重が生きていた当時は黎明期ということですね。」
「お、難しい言葉を知っているね。」
「またバカにしましたね!」
「ごめん、ごめん、まさかKさんの口から黎明期って言葉が出るとは思わなかったから。」
「まぁでもそういうことになるね。もっと言えば、鹿沼箒に触発されて編み方にもっと磨きをかけたとすれば、デザイン性を取り入れたのは鹿沼箒が急速に普及し始めた江戸後期もしくは明治以降と言えるかもしれない。江戸時代、特に広重が東海道五十三次を描いた1833年は、実用性重視だったそうだから、編み方もものすごくシンプルだったと思う。」
「江戸っ子って、無意味な装飾を嫌いそうですね。『てやんでぇ、豪華に着飾ったところで、掃く機能が上がるわけではあんべぇ。こんなのちゃっちゃっとやんだよ。』みたいな感じがします。」
「相変わらず・・・むちゃくちゃ(な江戸弁)だけど、そうだね、きっと。」

 

広重が生きていた当時の江戸箒は恐らく、シンプルな編み方と装飾の座敷箒だと思われます。明治以降、デザイン性と実用性を兼ねた「鹿沼箒」が台頭するにつれ競争が激しくなり、現在の座敷箒のような形状・デザインになったと思われます。

 

「今残っている座敷箒の形状や構造は、その激しい競争の中をかいくぐってきたツワモノということですね。」
「そういうことになるね。ただ、・・・・・・前回の鹿沼箒でも言ったけど、歴史というのはある意味残酷なんだ。何をいい箒とするかはさておき、必ずしもいいものが残るとは限らない。いい箒、悪い箒ということだけでなく、状況に合った箒が残っているということになる。」

 

江戸箒の生い立ちから現在までの流れを一気に見ることで、箒の変遷を確認してみました。当時の資料は少なく、点と点をつなげた箇所が多く、推測の域を超えないところも多々ありますが・・・。いずれにせよ、「より良いものを求める」お客様に対し「より良いものを作る」ことで切磋琢磨し、今日につながっているようです。

次回、ついに広重が見た箒が判明します。乞うご期待!