東海道五十三次“濱松・冬枯ノ図”のほうき再現プロジェクト東海道五十三次“濱松・冬枯ノ図”のほうき再現プロジェクト

第十六話 広重が描いた箒です。

[ ブログ ]  2015/11/27

歌川広重が東海道五十三次を描いたのは1833年、江戸時代の天保4年と言われています。わずか30数年後には明治維新を迎えることになるわけですが、江戸時代の、しかもここ浜松のほうきを再現する・・聞いただけでもなかなか面白そうです。

 

前回、憶測の域を超えませんが・・・広重がいた頃の江戸箒を考察しました。今回ついに広重が描いた箒に迫ります。

 

K 「何かクライマックスって感じで、興奮してきました」
Y 「まあね。でも必ずしもハッピーエンドで終わるとは限らないからね」
K 「うんもうっ、水を差しますね、まあそうですけど。でもでも、ぶっちゃけ、広重が見た浜松の箒について、何となく分かっているんじゃないんですか?」
Y 「簡単に言うね・・・。確かに何となく分かっているけど・・」
K 「どうなんです。広重が見た浜松の箒は」
Y 「ううーん」
K 「やけにもったいぶりますね。どうなんです」
Y 「・・・・・・・・ううーん。・・・・・・・・・」
K 「(笑顔で)まさか、竹ぼうきだったなんてことはないですよね」
Y 「・・ぼそぼそ・・」
K 「聞こえませんよ」
Y 「多分、竹ぼうき・・」

 

 

エーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!

 

 

江戸箒や鹿沼箒を調査し、ほうき草を使った座敷箒の歴史を紐解くにつれてその普及の仕方もじわじわ分かってきました。簡単に言うと、
 

1.  1800年代前半に江戸を中心に座敷箒が普及していったということ

2.  鹿沼箒が1841年に生産が始まったということ

3.  鹿沼箒の普及に伴い、江戸末期~明治初期において、現在の長野県からその箒草の問い合わせが鹿沼にあったという記録があること

 

そして決定的なのが・・・

 

4.  鹿沼箒が現在の静岡県にも移出されていたこと

 

そして裏付け的なものが・・・

 

5.  ほうき草の栽培が副業として特に推奨されたのが江戸後半または明治以降であること


既に考察したように、座敷箒が普及した要因は大きく2つあります。1つは畳が普及したこと、もう1つは副業としてほうき草が推奨されたことです。

 

宝永4年(1707年)遠州地方を大地震・大津波が襲い、浜名湖沿岸の田畑は塩水に浸かり、壊滅的な被害を受けました。これを契機として、浜松(特に現在の細江)では塩に強い琉球藺(りゅうきゅうい)を領内持ち込み、藺草(いぐさ)栽培が広がり、これに歩調を合わせて藺草を使った畳表(たたみおもて)の製織も積極的に行われ、この地方を潤したと言われています。ただ、ここで作られた畳表の多くは、その最大の需要地である江戸に移出されたと言われていますが、浜松にも流通したことは想像できます。

ということで、第一の要因はクリアできるのですが、どこをどう探しても、浜松でほうき草を栽培したという記録が今のところ見当たりません。一方、ほうき草の種が江戸に持ち込まれ、その界隈で生産が始まりましたが、浜松へ持ち込まれたという記録がないばかりか、鹿沼箒が静岡県に移出されたという記録があり、また、静岡県の隣県である長野県の商人がその商いのために鹿沼へ出向いたという記録もあります。

畳表が急激に広がると同時に、ほうき草の栽培も広がりましたが、鹿沼箒にもみられるように、当初のほうき草栽培の広がりは藩の政策というよりも、地方の名士による施策です。これが副業として推奨されるようになったのは、江戸後半または明治以降で、畳表の普及に伴い、座敷箒が急激に普及したことを契機としています。そのほうき草の栽培は座敷箒作りがさかんな関東地方を中心に行われていたようです。

以上の点から、浜松で(産業として)ほうき草を栽培していたと考えることには無理があるように思えます。

さらに、衝撃的な事実として、様々な資料を再度整理していたところ、アズマ工業が50数年前、座敷箒を初めて作ろうとしたとき、浜松ではほうき草が栽培されてなく、一から農家さんに対してほうき草作りの指導をしたという記録が出てきました。

ほうき草の栽培なくして座敷箒だけの生産は考えにくく、ほうき草の栽培をしていない以上、広重が訪れた当時、浜松では産業としての座敷箒作りはなされていなかったと考えるのが妥当と思われます。


従って、広重が浜松で見たほうきは残りの竹ぼうきと考えるべきであり、外を掃いているシーンからもそれが適当だと思われます。また、竹ぼうきの生産に関してはそれほどノウハウが必要でないため、各地域で家内労働的に作られていたと思われ、恐らくは、現在よく使われているような普通の竹ぼうきだと思われます。


 

「どっ、どうするんですか? だ、だ、だってもうほうき草、作っちゃいましたよ」
Y 「(やや開き直り気味・・)まあね」
「まあねって。な、なんで、そんなに冷静にいられるんですか? わ、わ、どうしよう。色々こねくりまわして・・・、その挙句が・・、いろんな箒の可能性を探らなくても、思いっきり正論の結末じゃないですか」
Y 「(完全に開き直り)だから言ったじゃないか、必ずしもハッピーエンドでは終わらないって」
「そ、そんなえらそうに」

 

(しばし、沈黙の後に・・・)

 

「でもね。このプロジェクトを考察したときにKさんにも言ったけど、広重は江戸から京都までの500kmをわずか2週間で旅したんだ。当然、その2週間で細部まで描けるはずがない。旅した後、江戸で時間を掛けて、五十三次を描き上げているんだ」
K 「・・それが何か・・」
Y 「広重が浜松で箒をスケッチしたと思う?」
K 「浜松で箒作りがさかんでなかったとしたら、多分描いていないと思います」
Y 「そう。だから、広重が江戸に帰って、いざ箒を描こうとしたときに参考にした可能性が高いのは多分江戸箒・・・じゃないかなと思う。なんてたって当時は座敷箒が急激に広がっている時だから」
K 「・・確かにそうですが・・」
Y 「だから、このプロジェクトのテーマを変えようと思う」

 

 

エーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!

 

 

(ま、まさかの展開で申し訳ございません・・・)

 

 

「つまり、『広重が見た浜松のほうきを再現する』ではなく、『広重が浜松を描いた時に見たほうきを再現する』ということですか?」
「その通り!」

 

(久しぶりに書きますが、必要以上にへこまない。これが我々のモットーです。多少強引な感じがしますが・・・・お許しください!!)

 

「な、なんかこれ以上、突っ込むとやぶ蛇になりそうなので、さっさと話題を変えますけど、いいですか?」
「おっ、さすが。気が利くね」
「・・・・・・・・・・・・・・」
「ということは広重がいた頃の江戸箒を再現するということになりますね」
「そうだね。でもそうなると、これぞまさしく白木屋伝兵衛様が作っている江戸箒ということになる。だから、みんなで作ったほうき草を白木屋伝兵衛様に送って、作ってもらおうと思っているんだ」

 

後日、白木屋伝兵衛の高野様に電話したところ、快く協力いただけるとの回答を得ることができました。最後の最後までドタバタ劇でしたが・・・本当に縁に恵まれました。感謝しか言いようがありません。

 

しかし、ここでまた問題が・・・(最後の最後まで問題が絶えません。)

 

早速収穫したほうき草をまとめて送付したところ、新たな問題が浮上しました。それは、江戸箒を作るには・・・

 

1.収穫した穂の茎が短く、細過ぎること

2.芯立(ガリ芯とも言われ、太く硬い穂のこと)がある穂が多いこと

3.折れ曲がった穂があること

 

特に「 1 」が致命傷で、江戸箒を作る際には、55cmほどの茎の長さが必要で、それに満たない穂は極めて作りにくい(というより、普通使わないとのこと)とのことで、引き受けて頂ける職人さんがいらっしゃらないとのことでした。

 

(今回、今までの経緯を再度説明し、何とか作っていただける職人さんを再度探していただけるようになりましたが。)

 

後日、高野様よりご連絡があり、「厳しい条件の中で、丁寧に仕上げてもらいました。」との一筆を添えて同封された箒がこれ。

 

白木屋伝兵衛様が抱えている職人 「鈴木 徹」氏が編み上げた江戸箒。ほうき草は浜松産。

 

これぞ、まさしく『広重が浜松を描いた時に見た(と思われる)江戸ほうき』です。

高野様、本当にありがとうございました。

白木屋伝兵衛様が抱えている職人「鈴木 徹」氏が編み上げた江戸箒。ほうき草は浜松産。

 

白木屋伝兵衛様が抱えている職人 「鈴木 徹」氏が編み上げた江戸箒。ほうき草は浜松産。

 

白木屋伝兵衛様が抱えている職人 「鈴木 徹」氏が編み上げた江戸箒。ほうき草は浜松産。

 

こうして、紆余曲折、途中テーマを変えるというとんでもない荒技まで飛び出しましたが、ついに、ついに完成です。

次回、家康君に献上します。

 

 

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